劇団茶好きの ティールーム♬

ちょっと一休み.したい時・・・お立ち寄りくださいませ☆彡(*^_^*).

どうにか、なる (*^_^*)

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金平糖

売新聞2015.5.9朝刊  編集手帳より引用

 

物理学者で随筆家の寺田寅彦はコーヒーを好んだらしい。

〈好きなもの苺珈琲花美人    ふところ手して宇宙見物〉。実験室の壁に自作の歌を貼っていたという。◆寅彦には俳句もある。〈客観の珈琲主観の新酒哉(かな)〉不敏にしてその深い意味を知らないが、コーヒーには物事を醒めた頭で冷静に見つめるのを助ける効能があるということか。頭がカッとなるのを抑えて人を"客観"に誘う飲み物ならば、心臓にも脳にも優しいはずである◆緑茶やコーヒーを毎日たくさん飲む人は心臓病や脳卒中で死亡するリスクが低下したという◆東京大学や国立がん研究センターの研究チームが男女9万人を平均19年間にわたって追跡調査し、結果を発表した。緑茶に含まれるカテキンやコーヒーに含まれるクロロゲン酸などの成分が血圧や血糖値に働くらしい◆折しも新茶の季節である。寅彦がコーヒー党ならば、緑茶党には太宰治がいる。

〈お茶のあぶくに/きれいな私の顔が/いくつもいくつも/うつっているのさ/どうにか、なる〉(『葉』)。

ときには疲れた顔を新茶のあぶくに映してみるのもいい。どうにか、なる。

………………………………………………………

こんにちは。

うちの両親はコーヒーが大好きで、高齢になった今でも平気で夜飲む。

夜眠れなくなるからカフェインは午後3時以降絶対に摂らない!という人が多いと思うが、そんなこともお構いなしで、むしろガーガー眠れているところが面白い。

以前、私のお店にいらした人に「今はカフェインだけを取り除いたカフェインレスコーヒーというのもあるんですよ。」というお話をした後にコーヒーをお出ししたら、その後「あの日はカフェインレスコーヒーを出して頂いたから夜気持ちよく眠れたわ」と喜ばれたのですが、その日お出ししたコーヒーは実は普通のものだったのだから、人の思い込みはすごいものだと驚きました。

信じるものは救われる・・・なんて言葉がありましたね。

寺田寅彦さんの言葉を借りると、コーヒーのカフェインを通して自分を客観的に見つめてみると、普段眠れないことをコーヒーのせいにしていただけなのかもしれませんね。

彼女の不眠はもっと別のところにある。

むしろ、神経質な心のためにはコーヒーはなくてはならないものなのかもしれませんよ。

安らかな眠りには人によって違うけれど、リラックスできるものがあるといいものですよね。

 うちの両親はもう仕事をしていないし、夜眠れなくても昼寝ればいいだけのこと…と別段夜眠ることにこだわっていないからこそ、気にせず好きな時に飲みたいものを飲む。

そういうカフェインの世間の思い込みにこだわらない生活が、自分を縛らず自由でいられる秘訣なのかもしれません。

 私は風邪を引くと急に、カテキンが喉にいいからと緑茶を飲み始めたりしますが、日頃から摂っていることが大事なのですよね。

ハーブティーは普段から好きでよく飲みますし、コーヒーは毎日2杯くらい飲む生活です。だから、忙しくても3時頃になるとスイーツと共に頂く習慣が私のリラックス法です。

 日本を代表するスイーツといえば金平糖ですが、寺田寅彦氏は「金平糖の角の研究」を行っていたそう。

出来上がるまでに2週間も要する金平糖は、色がカラフルで外国人のお土産にも喜ばれる逸品です。どうしてあんな角ができるのか不思議です。

時間があるのならグルグルとかき回される大鍋をずーっと見つめていたいなぁ♡(*^▽^*) (2週間は到底無理ですが・・・)

 太宰治の「葉」は最初の短編作品集『晩年』の冒頭に置かれた作品ですが、ちょっと理解するのは難しい。

*「「葉」は『晩年』以前の初期作品、あるいは焼き捨てた小説の中から、捨てがたいフラグメント(断片)を撰びだして、アフォリズム風に配列したものと思われる」

(文芸評論家 奥野健男「解説」太宰治『晩年』より引用)

なるほど、そう理解すれば、断片的であり、次の段との繋がりがなくとも納得できる。

 

本文の末に書いてあること・・・。

・・・

「生活。

 

よい仕事をしたあとで

一杯のお茶をすする

お茶のあぶくに

きれいな私の顔が

いくつもいくつも

うつっているのさ

 

どうにか、なる 」

 

この「どうにか、なる」は意味深ですね。

「どうにかなる」ならば単純に未来へつながる言葉として捉えられます。

でも、「どうにか、なる」って点があるだけで、頭がおかしくなってどうにかなってしまいそう!というような苦しい状況としても考えられるし、なんとかなるものさ、というポジティブなものとしてもとらえられる二極化した言葉となりますね。

全文が断片的で、他の文章との繋がりがないにせよ、最後の「どうにか、なる」はそれぞれの文に対して掛けているように感じます。

最初の文章に、「死のうと思っていたが、よそから着物を一反頂きそれが夏物だったので、夏まで生きていようと思った」(私の要約文)とある。

 死のうとまで考えていた人が、夏物着物をもらったことで、夏までは・・・と考えを変えてしまうのです。

今死のうと決めていたのに夏まで伸ばしても、どうにか、なる。

 

「よい仕事をしたあとで 一杯のお茶をすすりながらあぶくに映った自分の顔を客観的に見てみると・・・思っていたよりもいい顔をしている・・・。うん。生活はどうにかなっている。まだいけそうだ。」という解釈もあれば、

「よい仕事をしてもお茶のあぶくに映った自分の顔をよく見ると、きれいな私の顔がいくつもいくつも映り、それは本来の私ではない。本当の私は何なのだ。生活のために気持ちをごまかし、したくもない仕事をしている私。考えるだけで頭がおかしくなりそうだ。そんなことを思い、どうにか、なる。」などとも考えられる。
どちらかというと、前解釈のほうがすっきりと気持ちがいいですね。

 

人生は金平糖のように、じっくりと時間をかけて過ごしていく中で、自分なりの美しい形となっていくもの。

人の意見にとらわれずに、自分が感じたまましたいように過ごしていけばいい。

信じるものは救われる・・・。

「どうにか、なる」ものなのでしょう。

健康であればね。(*^_^*)