故人のご冥福を祈るということ・・・・・
故人のご冥福を祈るということ・・・(寄せ算を拒む「墓碑銘」を読んで)
2015.1.17読売新聞朝刊【「ウ」の目鷹の目(解説委員 鵜飼哲夫氏)】より引用
《*寄せ算を拒む「墓碑銘」
歳をかさね、生きていると別れが多くなる。
昨年、暮れ近くになり母を喪った(うしなった)。
「この時代、仕事させてもらえることはありがたい。感謝しないと」。
実家に帰ると息子にさとした母は、父の死後、手足の痛みがこうじ、歩くのも難儀だったが、「痛いのも生きている証かもしれない」と言い、子供の家族との語らいを喜びとしていた。
母の葬送から数日後、新人時代、宇都宮支局デスクだったIさんの訃報に接した。
バカ、間抜けを栃木弁で「デコスケ」という。怒られてばかりだった。
「今日は暑いなあ」。支局でつぶやくと、デスクの怒声がとんだ。
「暑いと思ったら一番暑い所を探し、なにがおきているか調べて来い、デコスケ!それが新しいことを聞く記者だろ」
原稿を書いても、「これでは読者に伝わらない」、書き直しの連続だった。
某日。原稿の趣旨を説明したら雷が落ちた。「新聞の読者の家を一軒一軒訪ね、今みたいにこの原稿はこういう内容です、と説明して歩き回るつもりなのか?原稿で示せ」
疑問と思ったら体を動かす。取材も原稿も手を抜かない。基本を叩き込まれた。
亡くなっても人は、残された者の心の中に生き続ける。
折に触れ、その言葉を思い出し、初心にかえる。
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阪神大震災からきょうで20年となる。
あの日々を思う時、蘇ってくるのは、作家の日野啓三さん(1929〜2002年)のことである。
読売新聞記者としてベトナム戦争報道などに携わりながら小説を執筆、1975年「あの夕陽」で芥川賞を受賞した日野さんは、後年、本紙読書委員を務め、本社で2週間に一度開かれる委員会に毎回のように出席していた。
その折々に、最新の小説や報道の話を伺うのが楽しみだった。
1995年1月17日の早朝に起きた大震災の詳しい状況は、なかなかつかめなかった。
交通、通信網が寸断、救出活動も困難を極め、ヘリコプターによる報道で、いたる所で煙があがっているのが見えても、その下にある惨状が見えない。もどかしさは募るばかりだった。
4年近く前の東日本大震災の時と同じだった。しばらくしてから流れた津波の映像を食い入るように見つめ、言葉を失っていた。
大災厄も懸命な救助が進み、状況が伝わるにつれて言葉は回復する。
阪神大震災から数日たつと、課題、対策が声高く語られるようになっていた。
日野さんは、その声の列には加わらず、いつもの静かな口調で、語りかけてきた。
「鵜飼君、あのテレビの画面に流れる長い犠牲者の名前の列があるだろう。原因や対策も必要だけれど、あの名前をかみしめることがまずは大切なんじゃないか」
その言葉が忘れられない。
数日後、日野さんは本紙連載の随想「流砂の遠近法」に記している。
〈個人の名前と年齢だけでこんなに心にこたえるとは思わなかった。最初数少ないうちは人数として見ていたのだが、そのうちそのひとりひとり、他の誰でもないそのひと個人の、いわば絶対的な個人性がなまなましく心に迫ってきた〉
犠牲者となった人たちの心情、記憶、性格、癖ーーー様々なことに思いをはせていた日野さんは、長い名前の列は「合計何千人という寄せ算を固く拒むものだった」と語っていた。
時は流れた。今、阪神・淡路地区を歩くと、新しいビルが建ち、焼け跡は消え、当時の惨状を見いだすことは難しい。
現在の姿は、夢や希望、無念さを抱えながら声なき世界に旅立った人々の沈黙に、十分にこたえることのできる「復興」なのだろうか。
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この夏、戦後70年を迎える。
昭和の戦争の犠牲者は、軍人・軍属・民間人を合わせて310万に上がるが、正確な数はわからない。
戦中、戦後の混乱のせいもあるが、敗戦直後、戦地に国民を動員した赤紙をはじめとした軍関係資料の焼却が、軍によって命じられたことも原因だ。空襲の恐怖が終わった後、資料の燃える炎が、日本の空を焦がした。
「計◯人」という寄せ算を拒む人の命の数すらつかめず、戦争や災厄を記憶する人は減り、時は無常に流れていく。
〈僕の将来に対する唯ぼんやりした不安〉ーーー。
この言葉を残し自殺した芥川龍之介の九回忌で、作家、菊池寛が「よせがき」に書いた句が身に染みる。
〈故人老いず生者老いゆく恨(うらみ)かな〉 》
・
・弥恵子コメント
こんにちは。
阪神・淡路大震災から20年。
被災していない私でもあの朝の悪夢は忘れられません。
1歳前の息子におっぱいをあげながらテレビをつけた時、高速道路の橋桁が崩れ、土埃が舞っている映像が目に飛び込んできました。
その時はまだ橋桁の事故なのかなと状況を理解できていませんでしたが、段々と現場の悲惨な状況が映し出されるごとに「これは大変なことが起きている!」とテレビ記者だった当時の夫を起こし職場へ見送ったことを鮮明に覚えています。
まだ、命があったにもかかわらず、助けられず火災で命を失った方がたくさんいらしたと聞いて胸がつまり辛い気持ちが募りました。
ご遺族の悲しみは例えようもないほどのものだったでしょう。
たった11秒間の揺れで、全てのものが変わってしまったのです。
11秒じゃ何もできない。逃げることすら出来ず、揺れが収まった後で足が地面から離れることができたと被災者の方が語られていました。
人の命が失われた時、たとえ知らない方でも故人のお名前・性別・年齢などからどのような方だったのかと推測し、もっと生きられたのならどのような人生だったのかと想像したりして心からご冥福をお祈りするものです。
それが、何千人、何万人という犠牲者の前では、知人のことなら故人を偲ぶことができますが、その他の方々のことはニュースや特集で取り上げられた方のことしか知る由もありません。
たくさんの犠牲者の陰にはその何倍も悲しみを抱えて生きていかなければならない遺族の方々、友人がいらっしゃる。
そのことを忘れてはいけないのですね。
作家の日野啓三さんの書かれていた
〈個人の名前と年齢だけでこんなに心にこたえるとは思わなかった。最初数少ないうちは人数として見ていたのだが、そのうちそのひとりひとり、他の誰でもないそのひと個人の、いわば絶対的な個人性がなまなましく心に迫ってきた〉
という言葉は、あの時毎日報道で日に日に増えていく犠牲者の方々の名前と年齢を見ながら震え、怯えて涙が止まらなかった私の心を言い表しています。きっと日本中、世界中の人が感じていたことなのかもしれません。
「計◯人」という寄せ算は、瞬時にニュースを伝えるのには必要でしょうが、その死をひとくくりにされることをきっと故人たちは悲しく思うかもしれません。
人の命はたった一つしかないかけがえのないもの。
ひとりひとり違った命。各々の方々が生きてきた軌跡をきちんと記憶しておいてあげたい。
墓碑銘にはそういう思いで故人のことを刻み込むものなのですね。
阪神・淡路大震災、東日本大震災と多くの犠牲者が出ている災害に見舞われている日本ですが、この先もきっと災害は起こるのでしょう。
私たちはその国でいかにして身を守り、みんなで助け合っていけるのか常日頃から心掛けておかなければなりません。
自分の大切な人をこの世から失わないために、大切な人を悲しませないために。
自分の命は自分で守り、たったひとりの私の存在を無くしてしまわないよう大震災を教訓として過ごしていきたいものですね。
今年は、主人と都心から自宅までの道のりを、少しずつ歩いて覚えていきたいと思っております。
いざという時、自分に知恵があれば周りの人達のことも助けられるかもしれません。
火に巻かれた都会から少しでも早く逃げられるよう、皆さんもウォーキングがてら訓練してみてくださいね。
一人の心掛けがみんなに広がれば、災害の被害は最少に食い止められるのではないかと信じています。
そして、そういう意識を持つことが、本当の意味で故人のご冥福を祈り、その死を無駄にしないということなのだと・・・。
私たちの心の中に、犠牲者の心の叫びを碑(エリイシ)として留めておきたいものですね。
阪神・淡路大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り致します。
そして、ご遺族の方々のお心が少しでも静まりますように。
ありがとうございます。(*^_^*)
*碑(エリイシ)・・「彫(え)り石」の意。事跡などを示す文字を彫り刻んだ石。石碑。いしぶみ。